小学生のころ、授業で「自分の人生を年表にしてみよう」という課題が出たことがある。
私が描いた将来設計は、こうだった。20代半ばで結婚し、30歳までに2人の子どもを産んで、50代には子育てが一段落。そこからは配偶者とのんびりと海外旅行に行ったり、美味しいワインを楽しんだりする穏やかな日々。そして、78歳で静かに最期を迎える。なんて完璧な人生設計。
ところが、ふたを開けてみたらどうだろう。今年36歳になる私は未だに独身。配偶者も子どももいない。それどころか、恋人すらいない。もしこのまま誰とも結婚せずに生きていけば、ひとりで老後を迎えることになる。
……でも、それって本当に“不幸”なのだろうか?
いまの私は、割とはっきりと「結婚しない」と決めている。その理由は「とことん自分だけの幸せを追求したくなったから」だ。
社会の視線が生み出す無言の圧力
もちろん「多様性」や「人それぞれの生き方」という言葉はずいぶん浸透してきた。けれど、世間のまなざしはそんなに甘くない。30代や40代で独身だと「結婚したくてもできなかった人」という落伍者のように扱われる空気を感じることが、未だにある。
「責任を果たさず自由気ままに生きている」「人間としての経験値が低い」といった、無言のレッテル。結婚・出産・育児が“人間の成長イベント”だとするなら、そこを通っていない私は、未完成のまま大人になってしまった存在なのだろうか。
たとえ自分で選んだ独身だとしても、そうは見てもらえない場面に何度も出会ってきた。そのたびに、どこか自分を正当化しようとしたり、「でもそのうち……」と未来の結婚をぼんやり期待してしまったり。
だけど、あるときふっと「もう、しないって決めたらいいじゃないか」と思えた。
その瞬間、驚くほど肩の力が抜けた。
愛情を「自分にベットする」という選択

もしも、誰かに向けるはずだった愛情があるのなら、私はそれをすべて自分に注ごうと決めた。
自分の心や身体をいたわり、毎日を少しでも快適に過ごせるように整える。美味しいごはんを食べ、好きな仕事に向き合い、行きたい場所へ行き、会いたい人にだけ会う。
そして、もし余った愛情があるのなら、それは両親や姉妹、友人、あるいはご縁があれば恋人に分配する。
一生、自分のために生き切る人生。それって、そんなに悲しいことだろうか? むしろ、私はこれまで誰かに気を使って生きすぎていたようにさえ思う。ようやく、自分を最優先してもいいと心から思えるようになったのは、後退ではなくむしろ前進だ。
「結婚=当たり前」だったのは、たった60年前から
そもそも、男女が結婚して家庭を築き、男性が外で働き、女性が家を守る……そんなライフスタイルが“当たり前”になったのは、高度経済成長期以降の話らしい。
つまり、1960年代くらいから定着した考え方ということ。それ以前やそれ以降には、もっと違った家族のかたちや暮らし方が存在していた。わずか60年そこそこの価値観が、いまだに「普通」や「正解」として人々の意識に根づいている。
けれど、現代には事実婚や別居婚、週末婚など、従来の「ひとつの家に暮らす夫婦」以外の選択肢も増えてきた。もしも婚姻制度そのものが完璧にうまく機能するシステムなら、ここまで急速に新しいかたちが増えることはなかったはずだ。
つまり、見直しの時期に来ているということ。
「結婚できたら幸せ」「できない人は不幸」……そんな考え方は、もういい加減手放したい。
そもそも、たった一人の人にすべてを託して生きていくこと自体、相当な重荷じゃないか?「狭く深く濃い人間関係がよい」という風潮もあるけれど、私は広く浅く、そしてやわらかく人と関わっていく生き方のほうが合っている。
もちろん、孤独な瞬間がゼロではない。でも、それ以上に、自分の世界を自分で整えて生きていけることに、大きな安心と喜びがある。結婚しない人生を「残念な選択肢」ではなく、「もう一つの豊かな道」として、自分がまず認めてあげたい。
自分を主語にして生きていく

結婚している人の人生も素晴らしい。子どもを育てる日々も、きっとたくさんの意味がある。
でも、私は「結婚しない」という道を、自分の意志で選んだ。それは誰に押しつけられたわけでも、誰かに諦めさせられたわけでもない。この世界でたった一人の“自分”を、最優先で大事にするための選択だ。
誰かの期待や世間の声ではなく、自分の声に耳を澄ませながら、自分だけの幸せを追いかけていく。それが、私が「結婚はしない」と決めた理由だ。