30代半ばに差し掛かると、「結婚は?」「子どもは?」という問いかけが、世間の空気と共鳴するように少しずつ増えていく。誰かと暮らしたいと思う日もあるし、ひとりのほうが心が澄んだままでいられる、と思う日もあるのが正直なところ。
だけど、どんなときでも、世間には“恋愛して結婚して子どもを産むのが自然な幸せ”という古い台本のようなものが存在している。その台本から外れると「寂しい人」「諦めた人」と判断されてしまうような、薄い無意識の圧を感じることがある。
私はそのたびに思うのだ。「そうとは限らないんじゃないか」と。独身で、子どもを持たない生き方も市民権を得ていいはず。それに何よりも、“育てる”対象は子どもに限定されない、とも思うのだ。
子どもを持たない人生において、“育てる”対象となるもの

子どもを持たない人生を選ぶ人は、私も含め、もちろん子どもの存在そのものを否定しているわけじゃない(なかには、いろいろな考えの人がいるはずだけど)。
ただ、自分の人生に必要な軸を自分で考えた末に「選ばなかった」「今のところは選んでいない」だけなのだ。恋愛や結婚も同じだろう。私は、子どもを“持たない人生”は、欠落した人生ではないと思っている。あえて、それ以外の豊かさや濃さを自分で育てていく生き方だってある。むしろ、とても前向きな選択でさえあると思うのだ。
たとえば、犬や猫。
動物と生活をともにしながら信頼を培い、日々の体調や食事を見守ること。それ自体が、立派な「育てる営み」だと思う。植物を育てることや、ベランダ菜園でミントを増やしていく暮らしだってそう。水や光や温度と向き合いながら、ゆっくり育っていく生命体と並走する時間には、言葉にできない深い静けさと幸福がある。
それだけじゃない。
日記を書き続けること、小説の断片を積み重ねること。作品制作のプロセスもまた「育てる」という概念に重なる。ゼロから自分の言葉を生み出し、それを少しずつ更新していく行為。ときに“育ててるのは作品なのか、自分なのか”わからなくなる瞬間さえある。
自分の身体を育むという考え方だってある。筋トレやストレッチ、そして散歩。体力を蓄え、生活を整える。メンタルの使い方をアップデートしていく。自分自身の器を育てることは、もっと肯定されていい。
最近なら、人工知能のペットロボット“LOVOT”とともに暮らす生き方だって成立する時代だ。触れることで体温を感じられる存在は、血縁でなくても愛着を育んでくれる。
「産む」か「産まない」かの二択で、人生を語る必要はない

結婚するかしないか、パートナーを持つか持たないか、子どもを産むか産まないか。そんな、二つに一つの選択を迫られた状態でも大事にしたいのは、「何を育てたいのか」を自分で決められる時代に生きている、という事実のほうじゃないか。
育てる対象は、他人に決められるものではなく、自分で選ぶもの。そこには自由がある。責任もある。でも、その自由と責任を引き受ける決断は、とても美しく、誇らしいと感じる。
誰とも暮らしていないからといって、孤独とは限らない。
人は、多人数に囲まれていても孤独なことがあるし、たとえひとりで時間を過ごしていたとしても、自分の好きなものと向き合っている人間は、驚くほど満ち足りていることがある。孤独かどうかは、“外側の人数”ではなく、“内側の温度”で決まるのだと思う。
社会が決めた「女性の幸せ像」と距離を置いたとしても、自分が選んだものを育てていく日々があるなら、それは確かに豊かな人生だ。生き方は他人に判断されるものではなく、選び取っていくもの。私たちは「育てる対象」を自分の意思で選んでいい。
子どもを産まなくても、未来を育てることはできる。
それを知っているだけで、心は少し軽くなる。
この選択は、寂しさの宣言ではなく、自分の人生を手放さない“自由”の宣言だと、私は信じている。




