20代のころ、誕生日に予定がないと「私は誰からも必要とされていないんじゃないか」と、不安になっていた。週末に何の予定もないと焦り、マッチングアプリを開いて、やりとりすらままならない誰かと必死で会う約束をしてしまう。きっと、あのころの私が求めていたのは“一緒にいてくれる誰かの存在”ではなく、“誰かに必要とされる自分”だったのだと思う。
恋愛をしていない私は、かわいそう?

恋愛さえしていれば、人生は順調で、幸せで充実していて、欠けたものがないようにみえる。そんな「恋愛至上主義」に塗れた世間の空気を、私は自然に吸い込みながら生きていた。「恋人がいる=価値がある存在」「既婚者=他者に必要とされている幸せ者」「誰かに愛されていない私は不完全」……そんなふうに思い込んでいた。
SNSでは、カップルの記念日ディナーや、婚姻届に婚約指輪を添えた報告が日常のように流れてくる。ドラマや映画は、どんなストーリーでも恋愛要素が織り込まれていることが多く、「恋をしていない人生」に正当性が与えられることは少ない。
もちろん、恋をすることそのものは尊い。けれど問題なのは、「恋愛をしていない人」に対して「なぜ?」「かわいそう」といった視線が無意識に向けられることなんじゃないだろうか。
恋愛していないと「人として未完成」だと感じるようになったきっかけは、実は“自分の声”ではなく、社会から受け取ってきたメッセージだったのかもしれない。そう気づいたのは、30代に入り、自分の心の声と向き合うようになってからだった。
自分は、誰を、どう愛したいのか
あるとき、恋人との関係維持や恋愛という営みそのものに疲れた私は、意識的に距離を置くようになった。マッチングアプリを削除して、友人からの「良い人紹介しようか?」の呼びかけにも「いまはいいや」と答える。
正直言って、最初は不安だった。このままずっと一人なんだろうか、老後も一人で過ごして挙げ句の果てに孤独死という未来が、私を待っているんだろうか。不安は色濃く、少しずつだけど着実に質量を増していく。
だけど、誰と会う予定もないポッと空いた時間に、私は自分の好きなことに没頭し始めた。
ホットヨガに通い、読書に夢中になり、ひとりで映画を観てカフェで感想をまとめる。誰にも合わせる必要のない時間のなか、「私って、こういうものが好きだったんだな」と再発見する瞬間が増えていった。それは確実に、自分と出会い直す時間だったのだと思う。
「誰かに愛される私」ではなく、「自分で自分を満たせる私」でいられることが、こんなに心地良いとは。
恋愛から少し距離をとってみて気づいたのは、私はずっと「愛される」ことばかりを重視していて、「自分がどう愛したいか」には向き合ってこなかったということだった。
恋をしても、しなくてもいい

好きになった人に合わせすぎて疲れてしまったり、嫌われたくないあまりに言いたいことが言えなかったり。そういう関係を「恋愛はこういうもの」「価値観や生活習慣が違う二人なんだから、多少の我慢は当たり前」と思っていた。
でもいまは、自分が自分を大切にできているからこそ、相手にも健やかな形で愛を向けたいと思える。過剰に期待せず、執着せず、自然体で向き合える関係は、自分の軸がしっかりしているからこそ築けるのだとわかった。
いまの私は、積極的に恋愛をしていない。でも、孤独ではない。
大切な家族がいて、心を許せる友人がいて、やりがいのある仕事があって、好きな街を歩きながら思いにふける自由な時間もある。それはかつて、誰かといないと得られないと思っていた幸せそのものだった。
恋をしてもいいし、しなくてもいい。誰かと暮らしてもいいし、一人でもいい。選択肢が増えた現代だからこそ、「どの選択が正しいか」ではなく「どの選択が自分にとって心地良いか」で選べばいいのだと思う。
もしまた、恋をするときがきたら? そのときは「誰かに愛されるため」ではなく、「自分を好きでいるため」に選んだ恋であってほしい。恋愛がすべてだったあのころの私に、「あなたはもう、ちゃんと愛されているよ」と伝えてあげたい気持ちで、今日も私は自分のためにお茶を淹れる。