電車を待つホームでの何気ない会話。仕事仲間との飲み会。友人とのお茶。ふとした瞬間に、私たちは「恋人いるの?」「好きな人は?」と聞かれる。悪気のない、ごく当たり前の質問だ。けれど、私はいつも答えに詰まってしまう。正直に「恋愛感情がよくわからないんです」と返すと、相手は戸惑ったような顔をする。そして、思わぬ言葉が返ってくるのだ。
「え、それって寂しくないの?」
「本当に好きだと思える人に出会ってないだけだよ」
「そのうち自然に恋愛(結婚)したくなるよ」
悪意がないのはわかる。けれど、その言葉たちは胸にざらりとした違和感を残す。まるで、私という存在の核心を、何かが蝕んでいくような感覚。今回は、その違和感の正体を少し言葉にしてみたい。
「普通」を押し付ける言葉たち
「運命の人に出会ったら変わるよ」。この言葉は、出会いによって自分の価値観が揺らぐことを示唆しているようにも聞こえる。だけど、裏を返せば「いまのあなたは不完全だ」と言われているようにも感じる。
「一度も恋してないなんて、変じゃない?」というストレートな言葉を受けると、私はどうしたって「自分は間違っているのかな」「やっぱり変なのかな」と孤独を強めてしまう。そして「そのうち自然に恋愛(結婚)したくなるよ」という言葉は、私の感覚を否定し、未来の私の意思すらもコントロールしようとしているようだ。
これらの言葉に共通するのは、「恋愛感情を持つことが人として正常であり、それが当たり前である」という前提だ。
「普通」を基準に語られると、それ以外の感覚は「異常」であり、「欠けている」と烙印を押される。話し手は良かれと思って口にしているのかもしれない。それでも言われた側は「自分は間違っているのだろうか」と、自己肯定感を少しずつ削られていく。
グレーセクシャル/フルイドな感覚とは
「他者に性的感情を抱かない」アセクシャル(無性愛者)だけではなく、「恋愛感情がある日も、ない日もある」というグレーゾーンに生きる人もいる。私自身、そのグレーゾーンのなかにいるのでは、と感じる瞬間もあるのだ。
今日は誰かに会いたい、人と深く関わりたいと思うけれど、翌日にはひとりで静かに過ごしたい、誰にも触れられたくないと感じる。恋愛モードのスイッチが、日によってONになったりOFFになったり。この揺らぎは、まるで自分の心に住む、別の自分がいるかのようだ。
一貫性がないことは、欠陥ではない。それは、その人の性質なのだ。この事実に気づくまでに、私は長い時間を要した。
自分のこの揺らぎを「おかしい」と決めつけ、なんとか恋愛感情を定着させようと無理をしていた時期もあった。しかし、グレーセクシャルやフルイドという言葉に出会い、私は救われた。名前があることで、自分の感覚を説明できるようになったのだ。
誰かに完璧に理解されなくてもいい。まずは自分自身が「ああ、これはこういうことなんだな」と納得できるようになったことで、心は軽くなった。
“理解されない”痛みと、説明する難しさ

社会の前提が「恋愛して、結婚して、子どもを持って家族をつくること」だからこそ、恋愛感情を持たない私たちは、常に“そうしない理由”を説明する必要に迫られる。「なんで?」「本当はトラウマがあるんじゃない?」と、勝手に原因を探られることもある。
しかし、当事者としては「ただ、そういう感覚なんです」としか言いようがない。
この説明の難しさは、ときに大きな痛みとなる。説明するたびに「自分は間違っていない」と弁明しているような気持ちになるし、疲れてしまう。恋愛の話が、ごく自然にできる人たちがいる一方、私たちは自分の感覚について、常に言葉を探し、説明し続けることを強いられる。それは、目には見えないけれど、着実に心をすり減らす作業だ。
「恋じゃない好き」を語れる場所の大切さ

そんななかで、私が救われたのは、セクシャルマイノリティの人たちが集まるイベントやオンラインコミュニティだった。そこには、私と同じように恋愛の違和感を抱えている人たちが集まっていた。
「身体的接触が苦手でも、信頼できる人と一緒に暮らしたい」
「恋愛感情がわからなくても、友情やつながりに幸せを感じる」
こうした声が安心して交わされる場所では、「わかる!」と深く頷き合う瞬間が生まれる。
私はそこで、「恋愛感情が前提じゃない“好き”の感覚」を語れる喜びを知った。恋愛や結婚という枠組みから解放された、新しい関係性の話。自分の感覚を肯定してくれる場は、心の拠り所となる。
すべてを言葉で説明できなくてもいいのかもしれない。大切なのは、「私はこう感じる」という事実を、そのまま受け止めてもらうこと。無理にラベルを貼らず、この揺らぎを揺らぎのまま認めてくれる人と出会うこと。それは、恋愛や結婚の枠を超えた、新しいパートナーシップや“選べる家族”につながっていくのではないだろうか。
違和感を言葉にすることから始めよう
「恋愛感情がわからない」と言ったときに胸に残る違和感は、社会が押し付けてきた“普通”と、私の感覚のズレから生まれる。でも、その違和感を無理に押し殺す必要はない。言葉にして伝えることは、自分を守り、自分を好きでいるための行為だ。
恋愛をしない日も、したい日も、どちらも「私の一部」。安心して語り合える場が増えることで、恋愛や結婚に縛られない多様な幸せの形が、もっと自然に受け入れられる社会になるはずだ。
私たちは、ただ「そうありたい」と願うだけで、自分らしい幸せのかたちを選び取ることができるのだから。