いまや「多様性」や「自分らしい生き方」という言葉が当たり前のように聞こえる時代。でも、いざ「結婚しない」と口にすると、周囲から一瞬静まり返ったような空気が流れることも少なくない。
私自身、そんな瞬間に何度か遭遇してきた。そのなかでもとくに忘れられないのが、約10年前、地元の葬儀会社で働いていたときのことだ。ある上司からの一言が、私にとって人生を考え直すきっかけになった。
葬儀会社時代、ハードな日々のなかで

当時の私は、地元の小さな葬儀会社に勤めていた。朝は早く、夜は遅い。週に一度の休みすら取れるかどうかという忙しさ。さらに、職場ではパワハラやセクハラが日常茶飯事だった。いま振り返ればよく耐えていたなと思うが、あのときは「社会人だから」「働くってこういうことなんだ」と、半ば諦めたように日々を過ごしていた。
仕事柄、人の「最期」と向き合うことが多かった。100歳まで生きて大往生、親族から笑いあり涙ありで見送られる方もいれば、一人きりで旅立つ人、はたまた自分と同じくらいの年齢にも関わらず自ら人生を閉じる選択をした人など、さまざまな最期を迎える人がいる。だからこそ、逆説的に「自分はどう生きたいか」を考える瞬間もあった。
ただ、当時の私には、そんなことを考える心の余裕がなかったのも事実だ。
そんなある日、ご遺族との打ち合わせに向かうため、上司とふたりで社用車に乗り込んだ。まだ入社1〜2年目の新人だった私は、緊張しながらも何とか会話を合わせていた。
上司は社内でも愛妻家として知られており、ちょっとした雑談のなかで「あなたは彼氏はいるの?」と聞いてきた。そのとき私は正直に「いないんですよ」と答え、さらに勢いで「なんか私、結婚はしないかもしれなくて」「恋愛とか結婚とか、あんまり人よりも興味が持てないかもしれないんですよね」と口にしてしまった。
すると、間髪入れずに返ってきたのが、この一言だった。
「そんな若いうちから諦めてちゃダメだよ!もっと頑張らないと!」
その瞬間、私は言葉を失った。「諦める」? 結婚しないことは、恋愛しないことは、何かを諦めることなんだろうか。それって、そんなに悪いことなの?
「諦めた人間」として見られる違和感
その後、どんなふうに返事をしたのか、どうやって会話を終えたのか覚えていない。愛想笑いで流したのか、それとも適当に話題を変えたのか……。けれど、心のなかではずっとモヤモヤが続いていた。10年以上経ったいまでも、こうやってたまに思い出すほどだ。
「結婚しない=諦めた人間」なのか?
そんな疑問が何度も頭をよぎる。それからの日々、職場でもプライベートでも「まだ結婚しないの?」と聞かれるたびに、あの上司の一言が脳裏をかすめた。
私は別に、恋愛や結婚を積極的に「諦めた」わけではなかった。ただ「自分の人生には、そこまで必要ではないのかも」と思っているだけだった。それなのに、周囲からは「かわいそう」「寂しい人」と見られてしまう。そのたびに、自分の生き方そのものを否定されたような気持ちになった。
考えてみれば、趣味や食べ物の好みだって人それぞれ違う。誰もがカレーライスを好きなわけではないし、誰もが旅行好きなわけでもない。だったら、恋愛や結婚だって、同じことじゃないか。
「みんながやっているから、自分もやる」
そんな理由だけで人生の大きな決断をするのは、やっぱりおかしい。恋愛したい人はすればいいし、結婚したい人はすればいい。でも、そこに興味が持てない人や、ほかに大事なこと、優先したいことがある人まで、世間のモノサシに無理に合わせる必要はないはずだ。
そう気づいてからは、だんだんと周囲の目を気にしなくなった。もちろんいまでも「結婚は?」と聞かれることはある。でもそのたびに、私は心のなかで「それは私の選択だから」と静かに答えるようにしている。
自分らしい人生を選ぶために

あのときの上司の一言は、いまでは私にとって原点のようなものだ。「そんな若いうちから諦めてちゃダメだよ!」という言葉に、あのときは傷ついたけれど、だからこそ自分自身の考えを深めることができた。
恋愛も結婚も、「しない」ことを選んだ人がいる。それは「諦めた」からではなく、「自分で選んだ」からだ。大切なのは、誰かの期待に応えることではなく、自分自身が心地よく生きられるかどうか。
これからも私は、自分にとって必要なものを選び、必要ないものは手放す。その繰り返しで、自分らしい人生を積み重ねていきたい。
そしてもし、同じように迷っている人がいたら伝えたい。「あなたの選択は、誰にも否定されるものではないよ」と。