「多様性」という言葉が当たり前のように使われるようになって、もうずいぶん経つ。けれど、それが“ただの便利なスローガン”になってしまっていないか。最近、そんなことばかり考えている。
多様性。ダイバーシティ。人それぞれ。誰もが違っていい。そんな耳障りのいい言葉が、まるでひとり歩きしているように感じる。「多様性って大事だよね」と言うのは簡単だけど、現実の場面でその言葉に本気で向き合うことは、想像以上に難しい。とくに、年に数回だけ帰る実家の、ある地方都市に足を踏み入れたとき、私はその「現実」と真正面から衝突することになる。
東京と地元、空気の違いに戸惑う
東京の街は、いろんな人がいる。暮らし方も働き方も、恋愛や結婚に対する価値観も本当に多様だ。その空気のなかにいると、「自分は少し変わっているのかもしれない」なんて思わなくても済むし、「普通」に合わせようと無理をしなくていい。
でも、そんな感覚は帰省すると一瞬で崩れ去る。お盆休みに、久々に帰った田舎の家で、私はある“言葉”に突如さらされ、思わず心のなかで膝をついた。
それは、お坊さんの口から発せられた。
お経をあげにやってきた、いつも法事でお世話になっているお坊さん。静かな時間、私は手を合わせながら、顔も名前も知らない先祖を思っていた。お経のあとにおこなわれる法話の席で、お坊さんと自然な流れで会話を交わすことになった。
「お孫さんですか?」
「はい」
「お盆休みですか?」
「そうです、久々に帰ってきました」
和やかに進んでいたその会話は、ふとした一言で空気が変わった。
「ご結婚は? お一人ですか?」
まあ、そうだよな。推定30代半ばの孫が、旦那も子どもも連れずに一人で帰ってきたら、気になるのが人間の自然な反応なのかもしれない。「はい、独身です」と答えた私に、お坊さんは唐突に語り出した。それは、少子高齢化の話。地元の小学校や中学校が廃校になり、若い働き手がいない現状について。このままだと、町が消えてしまうかもしれない。
うん、分かる。大きくて、とても深刻な課題だ。うなずきながら聞いていた私に、お坊さんは言った。
「あなたも、頑張って結婚して子どもを産んで、少子高齢化を止めてもらわないとね」
「社会のために産む」というプレッシャー
耳を疑うとはこういうことか、と自分の肌を通して痛感した。私は今、何を聞いた? 結婚して、子どもを産んで、少子高齢化を止める? 脳の動きそのものがフリーズしたまま、瞼に力を込めて涙腺を堰き止めるのに必死だった。
たしかに私は子どもを産める身体を持っているかもしれない。けれど、それを“使って”社会の課題を解決しなければならないのだろうか? それが私の義務なんだろうか? 私の人生は、社会の歯車として用意されたものなんだろうか? 私の存在意義は「子どもを産むこと」だけなんだろうか?
もちろん、お坊さんに悪気はなかったと思う。ただ、こうした“悪気のない言葉”が、もっとも人を傷つけるのも確かだ。
私がどんな想いで生きているのか。どんな選択をしてきたのか。何を大切にしていて、何を諦めてきたのか。そんな背景は、一切見られていない。ただ一人の「未婚の女性」として、「結婚と出産で社会を救う人」として、勝手にラベルを貼られていた。
東京に戻ったあと、何日もその言葉が頭のなかをぐわんぐわん飛び回っていた。怒り、悲しみ、やるせなさ、無力感。さまざまな感情が発作のように押し寄せては、引いていった。
そしてようやく、私は思った。こういう無遠慮な社会的プレッシャーと、どうやって付き合っていけばいいのだろうか。
私が選んだ「適度に無視する」という選択

結論から言えば、私がたどり着いた答えは「適度に無視すること」だった。
すべてを受け止めていたら、心がもたない。だから私は、ある程度は他者の目を無視して生きることにした。完全に無視することはできない。この世界に、たった一人で生きているわけじゃないからだ。家族も、友人も、仕事相手だっている。
だからこそ、自分の世界を守りながら、他者との関係性を築く必要がある。何事もバランスが大事、というやつだ。他者と良い距離感を保ちつつ、しかし「これは受け入れられない」とはっきり線を引く。その勇気を持つこと。
あの瞬間、私はお坊さんに対して、笑ってごまかすことしかできなかった。でも心のなかでは「それは違うと思います!!!」と叫んでいた。
次に同じような言葉を投げかけられたときには、こう答えたい。
「私は私の人生を生きています。社会のためじゃなく、自分のために生きているんです」と。
それは、自己中心的な態度ではない。むしろ、自分の人生に責任を持って生きるという、覚悟の表れだと思っている。
「自分らしく生きる」ことを手放さない

社会的プレッシャーは、いつどこから降ってくるかわからない。東京では感じない空気に、実家でいきなり殴られることもある。だけど、そんなときこそ「自分はどう生きたいか」を見つめ直すチャンスだと思う。
私はこれからも、自分の時間を、自分のために使っていきたい。誰かの期待に応えるために生きるのではなく、自分が心から納得できる人生を選び続けたい。
「多様性」って何だろう? きっとそれは、いちいち生まれ得るこういう問いを、しつこく手放さず考え続けることから始まるはず。
他人の期待を無理に背負わない。“悪気のない言葉”に振り回されない。
そして、自分にとって心地いい距離感を大切にすること。
社会のなかで、自分をすり減らさずに生きていくために、私たちはもっと、自分を大切にするスキルを身につけてもいい。この文章が、誰かの“心の防波堤”になりますように。